エッセイ いのちと向き合うということ(2)
7月6日の続きです。バスに母娘が乗っていたところ、2人のご婦人が正面に座られた。
しばらくしたら、その2人のご婦人は、手話で会話を始められたのです。目の前でそういう光景が展開され、A子さんがそれを見ていることに気づかれたお母様は、「耳の不自由な方々が、一生懸命会話しておられるのよ、ジロジロ見てはいけません」とおっしゃったそうです。お母様は、正面のお二人を気遣って、思わずそうおっしゃったのでしょう。そうしたら、A子さんがそれを受けてこう言ったそうです。「ジロジロ見てたんじゃないよ。じっと見てたの。私も手話を習えるかなと思って」と。お母様はハッとなさったそうです。この子の「じっと見ていた」という表現に、お母様は、通り一遍のことを言っている自分に気づかれた。「じっとみていた」そこに込められている思い、それは相手への肯定的な関心であり、「共感」であり「共に生きる」ことに対する欲求であったと。そして、そのお母様は井上先生にこう言われました。「子どもは私をつきぬけていきました」。
私たちは障がいをもっておられる方について、こどもたちに様々なことを知ってほしい、考えてほしいと願っています。そしていろいろな取り組みを行ってもいます。でも、この子どもは既に、「共に生きる」ことがどのようなことなのかを知っている。どうしたら私も、耳の不自由な人と一緒に話すことができるのだろうかと一生懸命問いかけながら、「じっと」見ていたのです。私はこの子どものこの生き方に感動します。「ジロジロ見る」と異なり、「じっとみる」は、温かさを感じるまなざしです。その人に向き合う、その人に寄り添う、その人とつながろうとする。その人の真の隣人になっていこうとうする決意の表現です。A子さんがきっと何気なく使ったそのことばは、実に多くのことを含む愛の表現だった。そのお母様が井上先生に分かち合ってくださったことに感謝します。そして井上先生が私たちにこのことを分かち合ってくださったことに深く感謝します。
私たちは、大人の一方的な「こうあるべき」という理念を信じて伝えがちです。でも、子どもたちは、それぞれの迸る感性で、もしかしたら、私たちを「つきぬけて」、真実をつかみ取る心をすでに授かっている存在なのかもしれません。大人は、その発芽をただ大切に見守ることに失敗してはならないのでしょう。それが、「いのちと向き合う」ことを穏やかに育てる教育なのかも知れません。