エッセイ 「銀河鉄道の夜」より~私が命を感じる言葉

宮沢賢治の作品に触れていたら、自分の世界観と非常に相通じるものがあり、実はとても熱心な仏教徒だったと知った時、なるほど、諸宗教はコアなところで分かち合い、つながっているんだと感動したものでした。彼は、37歳で亡くなる時に法華経をたくさん印刷して友人に配ってくれるよう肉親に頼んだというエピソードを後ほど聞きました。法華経の中心思想は菩薩道。たとえば、物語の中盤で登場する蠍(さそり)の祈りなどは、はっきりとそれがバックボーンであることがわかります。そしてそれは、私たちの学校が大切にしているイエスの教えとも分かち合える価値観です。

「銀河鉄道の夜」には、私が「命を感じる言葉」が散りばめられています。一部、ご紹介したいと思います。

*本文はなるべく現代仮名遣いの定本に基づいていますが、一部、こちらで読み易さを考慮し、漢字に変換している部分があります。ご了承ください。

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「ぼくのおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんの一番の幸(さいわい)なんだろう」(カムパネルラ)

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「ぼくわからない。けれども、誰だってほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくを許して下さると思う。」(カムパネルラ)

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「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福にちかづく一あしずつですから」(灯台守)

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「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私が今度いたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしのからだを黙っていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」(蠍(さそり))

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「カムバネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない」
「うん。僕だってそうだ。」カムバネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体なんだろう」ジョバンニが云いました。
「僕わからない」カムバネルラがぼんやり云いました。

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ジョバンニにはカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。 

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「もう駄目です。落ちてから四十五分もたちましたから。」
ジョバンニはおもわずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方をしっていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。

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みんなの幸いを探しに行くと決意するジョバンニは、実は孤独な存在です。どこまでもどこまでも一緒に行こうと約束する親友カムパネルラを喪い、母の病気の治癒も父の帰還もいつになるか、彼の孤独感と深く関わります。この世で私たちがこだわり続ける愛は、実は悲しいほど脆い。みんな「ひとり」と知るがゆえに「つながり」を慈しみ、共にいられる場所に帰還したい。ジョバンニは実は私たち一人ひとりの孤独の叫び、そして本当の幸いを約束する永遠への希求。どこかで、私たちも一人のジョバンニなのですね。「やっぱり私はひとりだ」と悟ることは、その意味で大切なことなのかもしれません。銀河鉄道を降り、本当の幸いを探しに、この不確実な世界で、ジョバンニは病気の母親の待つ家に帰るのです。ふりだしに戻るようで、実は一つの次元を超えた彼を再発見するようです。

前述した蠍(さそり)の祈りについて、もっと時間をかけて考えてみたくなりました。
次回をお楽しみに。





この続きはまた。

 

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