エッセイ 家庭教育講座へのご参加ありがとうございました。

本日はご多用中、家庭教育講座へ多数ご参加いただきましてどうも有難うございました。日頃から私が考えていること、気づいていることがらについて共有して頂けるチャンスがあったことを大変嬉しく思います。

本日、一番最後に申し上げたことは、以下の内容です。本日、お越しになれなかった方々のご要望にもお応えして、一部を抜粋いたします。

 

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「英国と日本の母親の言葉かけを詳しく見ていくと、かなりの共通点もあり、それゆえに浮きぼりにされる相違点も顕著となった。例えば、子どもに話しかける英国の母親たちは例外なく、子どもを ‘YOU’と呼ぶ。そして母親は自分を ‘I’と呼んでいた。日本人である私からみて、この「あなた」と「私」は常に正面を向き合い、交渉し、ゴールを目指しているように見えた。どんなに小さな子どもに対しても,母親たちのそのスタンスは変わらなかったことを、私のビデオカメラのファインダーは確実に捉えている。私は決してどちらの国の母親ことばのあり方の優劣を述べるつもりはない。それはむしろ誤りである。私が認識したのは、比較対照の結果に表れてきた相違点であった。日本人の母親たちが巧みにそして細やかに 行っている「くろご」的援助や、英国人母親たちの微妙な力関係の調整は、ほとんど気づいているようで実は気づいていないお互いのコミュニケーションスタイルである。それは各自がどこまでも自由にことばを選び、使いこなしているように感じながらも、各自の母語が制約することばのきまりや法則に従って、あるいは、生まれて属している特定のコミュニティーがある限り、そこに根づく文化の枠組みの中で、アイデアや信念を伝える以外に方法がない、我々の社会文化的な制約、限界があるという認識が重要なのである。
我々が自分たちのコミュニケーションスタイルを意識すること、そして同時に異文化のそれを認識することは、おそらく、このグローバル社会を生き抜く上で、必要な英知となると信じている。他者との共生には、他者への理解が根源的に重要であることは言うまでもない。そこにはことばの担う役割が大きいことは自明の前提であろう。だからこそ、コミュニケーションスタイルは、単に表層的なものではなく、生まれ育ったコミュニティーの成員の証しとして、すなわち、各自が保持するアイデンティティとして認識し合うことの大切さを、しばしば私は感じている。」

 

 

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