自己を超えて他者と出会う

 

 

一、45年間の取り組みの中で

 

 本校は、進化し続けて67年が経とうとしている京都市左京区に位置する女子ミッション・スクールです。戦後まもなくアメリカ人修道女たちによって建てられた本校は、ノートルダム教育修道女会という国際修道会の生き方の実りである「グローバル性」を学校現場にも旺盛に取り入れており、常に豊かで斬新な他者理解教育を取り入れてきました。「地球的」「世界規模」「国境を超えて」などの意味がある「グローバル」という概念は、語学教育や国際理解教育に連動されがちですが、本校ではその枠組みをさらに超えて、「固定概念から自由になる」という教育価値を付加しています。「私」という枠組みを超え、固定概念から解放され、思い込みから自由になり、他者を尊びながら対話的、共感的に関わっていくプロセスが、神の望まれる地球の平和を築く行動へとつながる。これこそがグローバル教育であると。この教育理念を下支えしてきた本校草創期からの一つの歴史的な取り組みについて、本稿で分かち合いたいと思います。 


 「ボランティア・スクール」と呼ばれているその取り組みは、今年で46回を迎えます。卒業生でもある私自身も、高校生の時に参加しています。京都を拠点に、市バスの低床化など多様な活動を続けて来られた障がい者の方々から成る「車いすと仲間の会」の発足とほぼ同時期に、この「仲間の会」と協働しながら、初期の頃のシスター方によってこの活動は始められました。毎年クリスマス近くの二日間を使い、一日目は、この「車いすと仲間の会」の皆さんに励まされながら、生徒たちが車いすの操作方法を学び、実際に車いすに乗って、あるいは介助しながら、近隣まで出かけます。参加した生徒たちは、「視点が変わる」体験をします。車いすの高さから世界を見つめる物理的な体験は、同時に、新しい扉を開く精神的な記憶となります。二日目はこの「仲間の会」の皆さんと共に食卓を囲み、クリスマスのお祝いをします。一概に車いすを使用されている肢体不自由な方々と言っても、各自が抱えておられる障がいの種類や度合は個人により異なっており、ニーズもそれぞれに違います。その方々と隣り合わせで「食卓を囲む」ことは、とりもなおさず私たちが、相手の側に立って物事を捉え直す絶好の機会となります。まさしく、思い込みから解放されるための、他者の視点に立ち直すための、本当に人を大切にするとはどういうことかを身体でわかるための、大切な取り組みです。 

 

二、Mさんと二人の生徒たち

 

 ある年のスクールでのこと、難病に罹患されているMさんが二日めのクリスマス・パーティに参加して下さった時のことでした。生徒二人一組で、Mさんに同伴するですが、全身の筋力が麻痺していく難病で、寝台型車いすに完全に寝たきり、コミュニケーションはボードを使用しながらご自身で“まばたき”を通して。二人の生徒も最初は困惑し、それでも恐る恐る関わりをもたねばならないと、意志的に努めているのがよくわかりました。パーティも一時間が経ち、二人は徐々に慣れて来たかと見て取れましたが、帰り際でのでき事。お別れの時となった時、その生徒たちがMさんと別れを惜しむ様子を見て、私の心は本当によろこびに溢れました。生徒の一人がぐちゃぐちゃに泣きながら、「Mさん、私たちのために来てくれはって、本当にありがとうございました。」と言いました。もう一人の生徒も泣いていました。Mさんも目に涙を浮かべながらまばたきをされてご自身の気持ちを伝えようとされていました。二人の生徒は「本当に本当に….」と言葉にならない声を発しながらMさんの手を握りしめていたのです。私は、あゝ、生徒たちの内側で何かが起っているとすぐに思いました。その過程のすべてを私自身は知らない、でもたった三時間程の出会い中で、Mさんを通して、彼女たちの内側が確かに変容したのです。幾日が経ち、その生徒の一人に私は何気なく尋ねてみました、どう感じた?と。すると答えてくれました。「私は今まで何も知らなかった。先生、私は何も知らずに今まで生きてきた。Mさんに出会えてよかった」と。Mさんを知っていく中で、わずかなチャンネルで一生懸命にコミュニケーションを図ろうとされたMさんへの感謝、通じ合った喜び、それを分かち合ってくれました。言葉は少なかったけれど、彼女たちは、このボランティア・スクールのど真ん中の真髄を味わってくれたと感じました。生徒たちはあの時に、自分自身を超えたのです。自分を飛び超えてMさんという他者の内側に入っていこうとした。Mさんの内側の苦しみや弱さ、そして強さを知ろうとした彼女たちに、Mさんは自己を開いて下さったのでしょう。そのことを「私は今まで何も知らなった」と表現した彼女の言葉の重みを、私はその時ゆっくりと味わっていました。

 

三、おしまいに


 おしまいにあたり、今年の入学式で私が新入生に語りかけた言葉の一部を抜粋します。

(中略)「グローバル」とは、当たり前と思いがちな固定概念を崩すことから始まるからです。世界のすべての人が、人としての尊厳と誇りをもって、与えられた命を生き生きと生きる、この、神様の望みを、私たちは常に大切に学び続けてきたし、これからも学び続けて、本当にグローバルな人へと成長を遂げて参りましょう。そうすれば、今世紀、いかに予測不可能なほどの速度でIT化や人口知能が進化したとしても、時代がどれほど弱い人々を置き去りにするようなことがあっても、私たちは常に、敏感で優しい眼をもち、神ご自身がその似姿に創られた私たち人間の限界をわきまえ、神様の手足となってよい働きができるでしょう。それがノートルダム教育の掲げる「徳と知」の精神であります(本校ホームページより)

 

 この拙文を最後まで読んでくださり、感謝申し上げます。

 

(日本カトリック小中高連盟 機関誌「よき家庭」Vol. 131 2019年7月号掲載)

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