ノートルダム女学院高等学校 2018年度 卒業式 式辞

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。3年間、そして6年間、ノートルダム教育の心に共感し、信頼してご同伴頂いたことを、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

 パウロ大塚喜直司教様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。そして、25期卒業生の皆様も、2階席から見守ってくださっています。ようこそ、懐かしの母校へお越しくださいました。心より歓迎いたします。

 さて、第64期卒業生の皆さん、この学び舎を巣立った後、学ばれたノートルダムの精神を豊かに創造的に生きてほしい、このことは、校長としての私の願いであるばかりではなく、あなた方がこれからの人生を生きて行かれる上で、また、私たちが今生きている現代社会にとって、どれほど大切であるか、それを、今日この時に、皆さんと共有しておきたいと思います。

 今、私たちは、IT化と人工知能が加速度的に進化し、これまでの知識や技能のみにもはや頼ることができない21世紀の真っただ中に生きています。様々な知識や情報は瞬時に共有され、すべての人とモノがつながり、新たな価値が次々と生み出され、テクノロジーの進化は著しい。人類はあと30年もすれば、肉体や能力の限界を超えると言われています。情報社会と呼ばれていた時代は終わり、次の段階へと移行する現在の変革期に、未来をリードするための人材を、社会は人材育成や教育という名の下で、懸命に排出しようとしています。その人材とは、技術革新や価値創造の源泉となる飛躍した知を発見あるいは創造できる人材、その成果を、社会課題につなげることのできる人材、さらには、それを元に新たなビジネスモデルを構築でき、感性豊かに従来の枠組を自由に離れて、クリエイティブに何かを生み出すことのできる人材、その育成のために、世界中は今、多大な資金を投じていると言えます。それは一見、素晴らしいことのように見えます。

 皆さんは次のことをどのようにお考えになられますか。

 アメリカのカリフォルニア大学サンディエゴ校では、先般、ヒトの様々な細胞や組織に育つことが可能なiPS細胞から、「人工脳」を作ることに成功したと公表しました。受胎後、25〜38週の赤ちゃんの脳に似た脳波を検出したとの報告があります。こればかりか、複数のヒトの脳を安全に繋ぎ、その脳波を通して問題解決をさせた初の例を、同じくアメリカはワシントン大学とカーネギーメロン大学の共同研究チームが報告しています。

 10年、20年前にはおよそ想像もできなかったようなテクノロジーの加速度的な発展のもとにあって、素晴らしい時代が到来したかのように思える時、同時にまた私たちは、深くて大きな、そして危機感をもった問いを与えられていることも確かです。人体とは何か、人間は何に目を向け、何を選び、何をすべきか、また何をすべきではないか、人間にしかできないこととは何か、人間だからこそ行うべきこととは何なのか。人工知能の台頭が人類の脅威ともなっている現代にこそ、神がその似姿としておつくりになった人間の本来の姿とその中身が何だったのか、という深い問いかけが生まれていると言ってよいでしょう。究極的には、今ほど、「人間とは何か」という問いを真正面から突き付けられている時代はかつてこれまでなかったのではないかと思われます。

 カトリック教会、そしてカトリック学校であるノートルダム女学院は、これまで述べてきたような変革期の社会の只中に存在しながら、これらの問いかけに、私たちの価値観で向き合ってきました。それは、対話的、共感的でありながら、時においては、時流に抗うことにもなります。なぜならば、カトリック教会は、イエスの生き方と価値観を最優先に選ぶからです。効率、利便性、生産性の高さを何よりも優先する社会の中で、困っている人や泣いている人を決して忘れない生き方をしたいからです。すなわち、強い者を作り出す社会を、弱く貧しい人々が置き去りになる社会、ランク付けする社会、虚偽虚栄の社会、愛を弱らせ絶望を招く社会、自己中心的に自然を消耗させ地球資源を枯渇させる社会、不和や争いが絶えない社会、これらの社会の現実に逃げずに向き合って、誰をも排除することなく、神様が義とされる方向へ愛をもって変革するように、それぞれの生き方を促すものだからです。皆さんは、そのような大きなことは自分にはできないと思いますか。いいえ、皆さんは既に、本校において、充分準備をしてきました。入学されてから今日まで、常に一人ひとりの心の内側に自分自身で向き合う、その機会を様々な具体的な日々を通して大切にしてきました。あなたの心の奥に静かにお住いになっている神様に気づき、自分とはどのような存在か、自分は何を選び、どう生きるべきか、私たちが生きる世界とはどういうものか、この地球はどうなっているのか、その上で人々はどう生きているのか、人間の幸福とは何か、という問いに高校生として謙虚に学び、みずから答えを出そうと出かけていき、様々な人と対話し、共感し、時には涙し、一生懸命に課題に向き合い解決策を見出そうとされた。本校においてそれができたご自身のことを、どうか誇りにしてください。私は校長として、そのようにがんばったあなた方を心から誇りに思っています。

 おしまいにあたり、私から、教皇フランシスコが2018年3月に公布された使徒的勧告「喜びに喜べ−現代世界における聖性」から、今日のために引用したお言葉をご紹介します。これは、マタイとルカのそれぞれの福音書の「山上の垂訓」と言われる箇所です。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という節から始まる聖書の言葉は皆さんにも馴染み深いでしょう。教皇様による現代的解釈とも言われる次のお言葉は、皆さんのこれからの歩みに際して、自分の人生の確かさをどこに置くべきか、という問いかけについて、確実なヒントとなることでしょう。

貧しさを心にもつこと、 それが聖であるということです。 謙遜に柔和に応じること、 それが聖であるということです。 人とともに涙が流せること、 それが聖であるということです。 飢えと渇きをもって正義を求めること、 それが聖であるということです。 思いやりの心で目を向け行動すること、 それが聖であるということです。 愛を曇らせるもののいっさいない真っ更な心を保つこと、 それが聖であるということです。 周囲に平和の種をまくこと、 それが聖であるということです。 日ごと福音の道を、それに苦しめられることになっても受け入れること、 それが聖であるということです。 (使徒的勧告「喜びに喜べー現代世界における聖性」第3章より抜粋)

 教皇フランシスコは、また次のようにも言われました。「イエスのその言葉で、本当に自分の生き方を変えるために、衝撃をもらい、迫ってもらい、問い詰めてもらいましょう。それでなければ、聖性(神様の道を真実に生きること)は、ただの言葉になってしまいます。」 このように言われました。これは、福音をただ耳に心地よい言葉として受けるのではなく、時に相当厳しく我々の生き様に問いかけるということを私たちに思い起こさせて頂けます。それは毎日毎日、一瞬一瞬における私たちの選択、人や自然や全てのものに対する血の通った、肉の伴った認識とそれに基づいた行いが問われているのだということです。

 皆さんはこれから、また新たな次元の学びの扉を開きます。その扉を、どのような心の眼と手で、開けていくのか、そのことが問われることでしょう。ノートルダム教育を受けたあなた方は、どうか、追い求めるものとその方法をノートルダムで学ばれた価値観で行ってほしいと切に望みます。すなわち、神の似姿として創造されたものとして、謙虚にすべての人と自然界に対し、敬意をもって対話的、共感的に関わり、愛に生きるということに尽きます。

 お一人おひとりの新しい門出が、神様の祝福に満たされた素晴らしいものであるように心からお祈り申し上げて、私の式辞とさせていただきます。

 

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