ノートルダム女学院高等学校 2016年度 卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校 2016年度 卒業式 式辞
2017年2月28日

学校長 栗本嘉子

_DSC9795卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところからではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。六年間、三年間、ノートルダム教育の心に共感し、ご同伴頂き、誠にありがとうございました。パウロ大塚喜直司教様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。
改めまして、卒業生の皆さん、今日、この学び舎を巣立つ皆さんは、明日からノートルダムの精神を生きておられる卒業生の先輩方のお仲間入りをされます。 神様によって置かれたそれぞれの場所で、3年間、6年間で受け取られたノートルダムの精神を豊かに、また創造的に生きてほしい、それを校長として私は心から願っています。
さて、今私たちを取り巻く世界は、まるで吹き荒れる嵐のような状態です。価値観は相対化され、自分たちにとっての心地よさや幸せを追い求めるためには、手段を選ばない、他を顧みない、押し通る、破壊する、壁を作る、そのような風潮は、世界中に、また個人の心の中に蔓延していると言えます。一人が一人として大切にされないばかりか、自分の利益、自国の利益のためには、助けが必要な人の命を危険にさらしても構わないといわんばかりです。

ここに一つの聖書の箇所を引用いたします。


フィリピの信徒への手紙2章1-11節

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。   何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。                      キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 フィリピの信徒への手紙 2章1-11節

皆さんは3年間、6年間、カトリック学校であるノートルダム女学院で、キリストの生き方をお手本にしてきました。キリスト・イエスは、ご自身自らが「道」であり「真理」であり「命」であると説かれた、その道を歩むようにと、私たち一人ひとりを招いてくださいました。ここに集う私たちは、天に召されるその日まで、この神様への道を一歩一歩共に登る旅の仲間です。そのことを知り、心してこの聖書の言葉に耳を傾ける時、今注目してもらいたい言葉をもう一度読もうと思います。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分より優れた者としなさい。めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(フィリピの信徒への手紙2:3-5)」


「へりくだった心」とは、単に、高ぶらない謙遜という意味だけではないように思います。それは、すぐ後に、一見脈絡から外れたように見えながら、なお述べられるキリストの姿に対する次の言葉が続くからです。すなわち、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙2:6-8)」



_DSC9807神と等しいキリストが、神と等しい身分を捨てて人間となった。人間の最下層とされて蔑まれていた取税人・罪人たちの理解者となり、友となり、食事を分かち、仲間となったイエスは、それを愉快と考えない自己中心的な我々によって犯罪人とされ、十字架刑によってその生涯を終えた。十字架の刑を受けて死すほどに「自分を無にした」、「自分を低くした」、このキリストの徹底した「降りていく生き方」こそが、ここでいう「へりくだった心」であると聖書は教えています。
このキリストに倣って、おのれを低くし、徹底的にへりくだった生き方を我々に示して死んで行かれたもう一人の人を、私たちは今すでに知っています。およそ400年前に摂津の国、現大阪府豊能町に生まれ、マニラで殉教された一人のキリスト者、ユスト・高山右近。63年の生涯のうち28年間は追放の身でした。戦乱の世に身分ある家柄の子として生まれ、時の権力者である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が一目置く存在にまで登りつめたその人生は、神との出会いによってすっかりと変容し、周囲の人たちの思惑とは全く異なる、やはり「降りていく生き方」を選んでいきます。キリストへの信仰と福音への忠誠のために領地を失い敗北者のように扱われても、世の力に屈服することなく、弱く貧しく心細く生きる人々を徹底的に大切にし、自らも貧しい追放の生活を喜んで受け入れ、豊かに輝きながらその生涯を終えました。
私たちは本年今月7日、この方の列福を大阪でお祝いしたばかりです。列福とは、聖人となる前段階として、ローマ法王によって「福者」となられたという意味です。この日、大阪城ホールで教皇代理のアマート枢機卿の司式でミサが執り行われ、340人を数える聖職者、そして一万人を超える列席者が見守る中、高山右近は福者になられました。皆さんの仲間である本校生徒たちも聖歌隊として近畿のカトリック校の生徒たちと共にミサの中で聖歌を歌い、洛星中学高等学校と本校の合同オーケストラでは、立派にその奉仕を努めさせて頂いたことを、私は心から誇りに思います。

_DSC9759400年前の福者高山右近のこのキリスト者としての生き方は、ともすればただ上に上にと登っていくことばかりに豊さを見出しがちな世の中にあって、ややもすれば真理を見失いそうになりながら生きなければならない私たちに、決して右往左往することなく、希望と勇気をもってキリストの内に輝く光を見出して、揺るぎない命への道を進むようにと、私たちを導くものです。キリストの生き方、またこの生き方に倣った右近を始め多くの先人たちの生き方を見上げる時、私たちは自分のことばかりを考え、自分の心地よさだけを追求する生き方ではなく、彼らのこの生き方の中にこそ、本当の生きがいがあるのではないか、真に祝福される人生があるのではないかと思い始めます。
ノートルダム女学院は、このような生き方に踏み込んでみよう、勇気が欠けるように見えても、神様に助けてもらいながら近づいてみようとしたあなた方を、励まし共に歩みながら、愛することを今日始めてみようと促し続けた学校です。どうかあなた方の母校の心を、今日巣立つ日に今一度思い起こしてください。そして、人生の幸福の真なる秘訣を決して忘れることなく、勇気をもって、これからの人生の海原に漕ぎ出してほしいと願っています。
これをもちまして、私の式辞といたします。ご卒業おめでとうございます。

前のページに戻る