ノートルダム女学院中学高等学校 創立64周年記念式典 式辞

ノートルダム女学院中学高等学校
創立64周年記念式典 式辞
2016年10月12日 学校長 栗本嘉子

 

ノートルダム女学院中学高等学校は本日、創立64周年を迎えました。今日、皆様とここでこのようにお祝いすることができて、私は本当に嬉しく思っています。生徒の皆さんは、今日から新たに65年目を生きる本校の、最先端を担う主人公の人々です。それを忘れないで、ノートルダム生としての誇りをもって、慈しみと愛に生きる若きレディとして日々を精進されますように願っています。
保護者の皆様、本日はようこそお越しくださいました。私たちを信頼して、大切なお嬢様をお委ねになって頂いた保護者様の、その信頼に支えられて、私たちもまた今新たな一歩を踏み出そうとしております。今日、ノートルダムの大切な心を皆様と分かち合うことができましたら、これ以上の喜びはございません。
そして、このように多くのご来賓の方々とシスター方に見守られながら、この喜びの時に共に与ることができますことを、神様と皆様に心より感謝申し上げます。本日は、ご多用の中お越し下さり、ありがとうございます。いつもノートルダム教育の実現のために、お祈りとお導きを頂き、感謝の気持ちで一杯です。
さて、創立記念日は、私たちの足元を見つめ直す日、どのような土の上に私たちが立ち、その土はどのように耕されて今日あるのか、そのことを思い起こし、そして、その土の上でこれまで、様々な偉大な神様の業が行われたことに対して、心を躍らせ喜びあう時でもあります。そして、さらに、創立記念日は、新たに、私たちがどの方向に向かって歩み出せばよいのかを確認し、決心する日でもあります。


今年は特に、シスターユージニア・レイカーを始めとする4人のシスター方が来日された1948年から学校設立の草創期そしてそれ以降のおよそ60年間、修道院としてあった「和中庵」と名付けられた建物が、一般公開の運びとなった記念すべき年でもありました。およそ三週間の短期間に、実に4700人以上もの方々が、学校に残る文化財としてのこの場所に出会ってくださいました。「和中庵」、その名のとおり、生きとし生けるすべてのものが和の中にあることを心に留める庵(いおり)は、多くの人々をつなぎ直す役割も果たし、また、過去と未来のつながりを確認し合う場所ともなりました。もともとのこの庵の主であった藤井家の末裔の方と生徒たちの対話の時が実り、あるいは同窓会の皆様方との印象的な出会いも実現しました。そして、和中庵が学校の敷地内に佇んでいることは、さらに大きな意味を私たちに与えてくれる。それは、この建物が二つめの役割として、修道院として存在した、その建物の記憶、また私たち学校の記憶です。豪商の手から清貧に生きる修道者の手に渡った時に、贅を極めた素晴らしい豊かさは、祈りが磨く時間と空間をもった清らかな美しさに変容しました。そのことを、学校はしっかりと記憶に刻んでいるということです。
その思いを胸に、新たに歩み出そうとする創立65年目の今という本年、9月4日に、インドのコルコタのマザーテレサが、ローマ教皇によって列聖されました。この出来事は、私たちにとって、今を生きる道を明確に示すものであると言えます。列聖とは、生涯にわたって素晴らしい生き方をした人を、カトリック教会が、私たちの模範にふさわしい人であると定める最高の地位ということができます。マザーテレサは皆さんがご存じのとおり、「貧しい人々の中でも最も貧しい人々」のために奉仕と祈りで生涯を生き切った方です。そのような偉大な人がいたということを記念するだけではなく、私たちはいつでも、今も、私たち一人ひとりは、マザーの生き方に倣うように促され、私たちの中にある様々な自己中心的な誘惑に打ち勝って、「愛する」を始めることを今日からまた、心を新たにして決意したいと思います。マザーテレサから私たちが頂く最大の大切なメッセージは、愛に生きてほしい、ということに尽きると思います。その愛は、目の前の他者に向かって、「私はあなたを大切に想っています。あなたのために祈っています。私の関心はあなたです。あなたのために、私の大切なものを明け渡すことができます」と言えるだけではなく、それが表れるように実行する勇気を持つということです。愛の対義語、反対言葉は「怒り」や「憎しみ」ではなく、愛の対義語は「無関心」という心の状態であることを明言したのもこの方です。どうか、ここに集う一人ひとりが、私も含めて少しでもマザーの生き方に近づけるように、次のごミサの中で決意し、また毎日の日常の中を丁寧に生きていけますように、心から願います。


 そしてまた、私たちの世界を取り巻くこの地球環境について、私たちが今こそ自分ごととしてしっかりと考えて行動していくための指針が、昨年、フランシスコ教皇の回勅として出されました。昨年の創立記念式典の時にもふれましたが、この「ラウダード・シ」は、「ともに暮らす家を大切に」という、わかりやすい言葉で、本年、日本語版が世に出て、多くの方々と共有できることになりました。この回勅は、地球上の大気、海、川、土の汚染、生物多様性の喪失、森林破壊、温暖化、砂漠化、廃棄物等、これまで我が物顔でしてきた我々の行為が全被造物に与えてきた影響について、私たちに振り返る機会を与えてくれています。そして、この回勅の中で、一番大切なことと私が捉えることは、このような地球の危機的状況をただ眺めて嘆くだけではなく、私たち自身のあり方、生き方を省みるように促すところにあると思います。自然環境の悪化に目を留める時、私たちの人間の内なる環境にこそ多くの問題がはらんでいるのではないか、なぜならば、自然環境の問題は社会の問題であり、また私たちの内なる魂の問題と密接につながっているからだと、回勅では説かれています。


 私たちの地球には、現在、汚染された大気や水や枯れ果てた森林、その上に実に多様な被造物たちが暮らしている。その被造物の良きリーダーとなるように、人間は神の似姿として作られました。にもかかわらず、私たち人間は、富める裕福な人々と、貧しくおいやられた人々に分断されています。環境を破壊しながら、思いのままにあれこれとたくさん買って、たくさん使って、たくさん捨てる、その消費文化に見合うように物がたくさん作られ、作られるたびに地球は壊されていく。それでもお構いなしに富んでいく我々と、そのことでマイナスの影響をもろに受けるしかない貧しい人たち。壊されていく地球の土や水に関わりながら農業や林業や漁業に頼って細々としか生きる術がない人々はこの環境破壊の諸現象に特に影響を受けます。さらにもっと貧しい人々は、最低の生命維持のために安全に飲める水すらありません。


 まず、知ること。私たちの地球がどのような悲鳴を上げているか、耳を傾けること。その汚染された地球上に、いったい誰が、どのように暮らしているのか、負の問題にも目をそらすことなく観ること。そして貧しい人々たちはどうように置かれているのかを知り、その人たちに自分をどう関わらせることができのかを考えること。カトリック学校の生徒である皆さんは、神と自己、他者、そして自然とのかかわりの健やかさを大切にしていく使命があると私は思います。
 私たちの学校の創立を記念する今日、私たち一人ひとりの生き方を、足元から見直してみましょう。私たちの、神と人とのかかわり方、自然とのかかわり方、ものとのかかわり方、私たちのお金の使い方、ものの買い方、捨て方、一つ一つが、私たちの生き方を表現しています。今日、私たちは古い人から新しい人になることができます。私たちが至らなかったことについて神様に赦しを願い、新しい人として、新しい一歩を踏み出しましょう。
神様の祝福が皆様の上に豊にありますようにお祈りいたします。

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