ノートルダム女学院高等学校 2023年度 卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校 2023年度卒業式 式辞

2024年2月28日

学校長 栗本嘉子

 

 

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。三年間、そして六年間、ノートルダム教育に共感し、信頼してご同伴頂いたことを、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

 

 パウロ大塚喜直司教様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。そして、また本日は、27期同窓生の皆様も、2階席から見守ってくださっています。ようこそ、懐かしの母校へお越しくださいました。心より歓迎いたします。

 

 さて、卒業生の皆さん、この学び舎を巣立った後、ここで学ばれたノートルダムの精神を豊かに創造的に生きてほしい、このことは、学校長としての私の願いであるばかりではなく、あなた方がこれからの人生を生きて行かれる上で、また、私たちが今生きている現代社会にとって、どれほど大切であるか、本日、この場所で最後にお話ししておきたいと思います。

 

 今、私たちは、IT化と人口知能が加速度的に進化し、これまでの知識や技能のみにもはや頼ることができない21世紀の真っただ中に生きています。様々な知識や情報は瞬時に共有され、あらゆる人とモノが瞬時につながり、テクノロジーの進化には、目を見張るものがあります。そして20年もすれば、AIの性能が人類の知能を超える、いわゆるシンギュラリティが起きると分かっています。創造を超える素晴らしい時代が到来したかのように思える時、同時にまた私たちには、深淵な問いを与えられました。人間にしかできないこと、人間だからこそ行うべきこととは何か。人口知能の台頭が人類の脅威ともなっている現代にこそ、神がその似姿としておつくりになった人間の本来の姿とその心が何だったのか、という問いかけが生まれているのです。究極的には、今ほど、「人間とは何か」という問いを真正面から突き付けられている時代は、これまでなかったのではないかと思われます。

 

 ところで皆さん、「人間」について考える時、まず、「私」とは誰かという問いについて考えてみます。そして、この問いに答えるために、深く関わるもう一つの問いとして、皆さんは、「他者」とは誰のことだと思いますか。おそらく、多くの人は、他者とは「私」以外の「誰か」です、とお答えになるかも知れません。しかし、ある時、私の尊敬する先生が、「他者」とは、「既に欠乏して、傷つき、困っている人」のことであると言ったのです。そのような「他者」の前で、初めて「私」が存在するのだ、と。これは私には衝撃的な、他者の定義でした。

 

 皆さんは、中学生の時にすでに、want, should, can を習ったことと思います。この三つの英単語は、二対一のグループに分けることができる。品詞の区別ではありません。意味の区別です。答えは、 want と should が同じ仲間で、canとは区別される。私の先生は、want should と を使って話す人が子どもで、can を使える人が大人である、と言われました。どういうことでしょう。やりたいことや、やらなくてはいけないことの話をするのが子どもであり、子どもは、自分にできること、自分のもてる何かで可能になることについては、あまり関心を持たないということなのです。私はなるほどと思いました。この三つの言葉の違いについて、いつ、どのような文脈で登場するかを考えてみたらわかります。 Wantと should を使う文脈、すなわち、「やりたいこと」、あるいは、「やるべきこと」、は、私を主語にした時、個人のことを説明する。一方、canを使う文脈、「自分にできること」 は、むしろ公共的です。個人のことは、他者の同意抜きで自己決定できますが、公共的なことがらは、他者の同意や承認抜きでは決定できません。

 

 私がcan を使う時、それは、まず、「他者」、傷つき、欠乏状態にあり、何等かを満たされなければならない「他者」の存在があり、その脈絡の中で、「私は~ができますよ」「私は~することが可能です」と、このcan の文、可能の文に、初めて意味を持たせることができる。単独で発話されても意味をもてないのです。必ず、対話の中で、しかも、欠乏、困りごとの次に来る、このことを、私の先生から聞いた時、私は衝撃を受けました。なぜならば、canは、その周りに小さくても対話的な社会を作り始める。その社会には、まず他者の苦しみ、欠如があり、それから「私」が存在する。大人とは、それがわかっている者のことである。他者の欠如を見つけ損ね、困っている人の存在を見落として、自分のこと、自分がやりたいことばかりで人生を満たしていくことは、「私」という人生をまだ生きていないのだと、そういう衝撃を受けたのです。

 

 カトリック学校であるノートルダム女学院は、どのように時代が変遷しても、「私」はどう生きるのか?という問いを、それぞれの時代に問いかけてきました。それは、対話的、共感的でありながら、時においては、時流に抗うことにもなります。なぜならば、カトリック教会は、イエスの生き方と価値観を最優先に選ぶからです。効率、利便性、生産性の高さを何よりも優先する社会の中で、困っている人や泣いている人を決して忘れない生き方をしたいからです。すなわち、強者を作り出す社会、弱く貧しい人々が置き去りになる社会、ランク付けする社会、虚偽、虚栄の果てで愛を弱らせ絶望を招く社会、自己中心的に自然を消耗させ、地球資源を枯渇させる社会、不和や争いが絶えない社会、これらの社会の現実に逃げずに向き合って、誰をも排除することなく、神様が義とされる方向へ愛をもって変革するように、それぞれの生き方を促すものだからです。皆さんは、そのような大きなことは自分にはできないと思いますか。いいえ、皆さんは既に、本校において、充分準備をしてきました。入学されてから今日まで、常に一人ひとりの心の内側に自分自身で向き合う、その機会を様々な具体的な日々を通して大切にしてきました。あなたの心の奥に静かにお住いになっている神様に気づき、自分とはどのような存在か、与えられた命をどう生きるのかという問いに高校生として謙虚に学び、みずから答えを出そうと出かけていき、様々な人に尊びをもって対話し、共感し、時には涙し、一生懸命に課題に向き合い解決策を見出そうと行動してくれた。本校においてそうして過ごされたご自身のことを、どうか誇りにしてください。そしてあらためて、自分を主語として、Canを使って他者の欠乏、他者の課題の前に謙虚さをもって現れて、その人の為に自分を惜しみなく使ってください。

 

最後に、私から、教皇フランシスコの使徒的勧告「喜びに喜べー現代世界における霊性」から、今日のために引用したお言葉をご紹介したいと思います。自分の人生の確かさをどこに置くべきか、Canという助動詞を自分の人生でどう使うのか、という問いかけについて、確実なヒントとなることでしょう。

 

        貧しさを心にもつこと

        謙遜に柔和に応じること

        人とともに涙が流せること

        飢えと渇きをもって正義を求めること

        思いやりの心で目を向け行動すること

        愛を曇らせるもののいっさいない真っ更な心を保つこと

        周囲に平和の種をまくこと

        日ごと福音の道を、それに苦しめられることになっても受け入れること

 

       (使徒的勧告「喜びに喜べー現代世界における霊性」第3章より抜粋)

 

 お一人おひとりの新しい門出が、神様の祝福に満たされた素晴らしいものであるように心からお祈り申し上げて、私の式辞とさせていただきます。

 

 

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