エッセイ 神は私たちと共におられる

kakejiku美しい書を頂きました。校長室に入ったところに掲げました。2013年の幕開けに、部屋が凛とひきしまりました。

この言葉は、マタイによる福音書のはじめの部分に出てきます。イエスのご誕生に際して、主の天使がマリアの夫ヨセフに告げられる場面に登場します(マタイ1章23節)。「インマヌエル(神がともにおられる)」と呼ばれる子ども、それがイエスご自身。イエスがこの世界の一角であるベツレヘムに生まれ、ナザレにおいて幼少期から少年期を経て成人され、人々に教えを説いて十字架の死を経て復活される、このすべての出来事をとおして、神ご自身が私たちに示されたメッセージは、「神は私たちと共におられる」ことでした。

イエスの死と復活から2000年以上経った今を生きる私たちに、このメッセージはどのように語りかけるでしょうか。何があっても、どんなことが起ころうとも、「神が共におられる」ことを信じる―これこそは、私たち一人ひとりに、イエスの誕生と共にプレゼントされた神様からの「招き」であると私は思っています。

以前、私の友人が重い病気にかかりました。二人の幼い子どもたちを残して、もう助からないことが分かっていました。彼女に、そして彼女の家族に襲いかかる大きな哀しみを前に、私は初めて、神様は理不尽だと怒りの気持ちを憶えました。そして、私の尊敬する神父様に、私の気持ちをぶつけたことがありました。「なぜ、神様はこれを許されるのか、なぜこんなことが現実に起こることを放っておかれるのか、私には到底、理解できません!」と泣きながら訴えました。彼は、死にゆく私の友人からも、とても慕われていました。彼は私をじっと見て、「神は、ご自身が愛してやまない我々人間に、自由意志と知恵を与えられた。病気も、事故も、戦争も、人間の営みに無関係なものは何もなく、現実に否応なく起こってしまう。様々なことで引き起こされる人間の深い哀しみについて、それをじっと見守られるのが神だ。決して見捨てないのが神だ。そして哀しむ私たちの傍らに留まり、一緒に泣かれるのが神だ。あなたは、その神を信じていますか。」と、神父様は逆に私に問われました。私は黙って泣いていました。でも「共におられる神」について、彼が私に問いかけた貴重な時でした。その友人は、それからしばらくして、神のもとへ召され、今はその神父様も、天において永遠に神と共におられます。三人のうち、私一人が今なお、この世の命を生きている ― 生きることと死ぬことは、私にとって永遠の神秘です。この世で生きる時間、どんな時にも、神が私と共におられること、そのことを私が心から信じて毎日を生きる決意があるか、彼が私に問いかけたその問いを、この書は思い出させてくれます。

一月,二月は入試のシーズン。ここノートルダム女学院から志望大学へ果敢に受験していく皆さんと、この女学院へ緊張した面持ちで受験に来て下さる小中学生の皆さんに対して、私は同じ気持ちです。一人ひとりに、神が共にいてくださいます。安心してご自身を委ねてください。そして知ってください。必ず、あなたにとって最善を取り計らってくださる神様が、いつもあなたと共におられるということを。

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