エッセイ 時間の神秘について

長らく一週間も空けてしまい、申し訳ありません。7月に入り、鹿ケ谷を包む緑が雨に美しく磨かれています。一枚一枚の葉が、眩しい新緑の頃から幾分成長し、しっかりとした深い緑へと変容しつつあります。この葉たちは、盛夏の厳しい頃、私たちのために優しい木陰をつくってくれる頼もしい存在になってくれることでしょう。私たちと共に歩む自然は、自らの存在でもって、すべてのことに時があることを示してくれています。

学校は来週から期末テストを迎えます。現在は、職員室前の談話コーナーのスペースに、時間を惜しんで先生に質問にくる生徒たちの列、いつまでも時を忘れるように生徒たちに寄り添う先生方、そのような光景が完全下校時刻まで続きます。夕暮れが訪れ、談話コーナーの窓辺が赤みがかったオレンジ色に染まる頃、生徒たちは時計を見ながら「ああ、もうこんな時間!」とつぶやきながら、「ありがとうございました!」と帰っていきます。

みんな時間との戦い。もしかしたら教師である我々も。机の上に積み上げられた書類、目を通しておかねばならない会議録、読むと約束した書類、書くと約束した原稿、会うべき人、出るべき会議、行くべき集まり等々。

「時間」について考えたいと思いました。みんな一様に与えられてはいるものの、それについてきちんと説明を求められれば、とたんにわからなくなる。人生に深く関わる大きな概念なのに、あたかも何気なく通り過ぎる風のようにかわしてしまうもの。今を生きながら、その今はすぐに過去になり、未来を見すえているつもりが、その未来も瞬く間に今をくぐりぬけて過去になろうとする。私にとって、時間とは、「生」「死」、このような次元と等しいほど、とてつもない神秘です。

ミヒャエル・エンデが、「モモ」という作品の中で、このようなことを書いている下りがあります。彼も時間を神秘と呼んだと知りました。

「大きいけれど、ごく日常的な神秘がある。すべての人がそれにかかわり、それを知っている。しかし、ほんのわずかな人々だけがそれについて考えている。この神秘こそ時間。
時間をはかるためにカレンダーや時計があるが、それには大した意味がない。だれもが知っていることだが、その時間に体験したことの内容次第で、たった一時間が永遠のように思えることがあるし、一瞬のように思えることもある。時間は人生だから。そして、人生は心の中に宿っているのだ。」

結局、時間とは自分自身である、といっても過言ではないかもしれません。一瞬一瞬の積み重ねが私の人生をつくる。今この瞬間が、私の生きざまをつくっている。その一瞬に、どう生きるか、その一瞬の出会いに何を求めるか、その一瞬の微笑みをだれに投げるか、その一瞬に何をするか。その一瞬の選び、人生はその連続です。

時を忘れて生徒に寄り添う先生たちは、山積みになっている仕事を職員室の机に置きっ放しで、生徒の完全下校まで生徒たちと共にいることを選んだ人々。人生を生徒に寄り添うと選んでいる人々。この学校はこれらの方々の人生の選択によって、今日まできたのだと思います。尊い時間の積み重ねが、この学校そのものなのです。

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