エッセイ 「銀河鉄道の夜」~ さそりの祈りより

―――昔、パルドラの野原に一匹の蝎(さそり)がいて、小さな虫を殺して、それを食べていきていた。ところが、ある日のこと、いたちに見つかって食べられそうになった。蝎は懸命に逃げのびたが、井戸に落ちてしまい、どうしても上がられないで、蝎は溺れ始めた。その時、蝎は祈った。

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「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私が今度いたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしのからだを黙っていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」

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以前、私は東北出身の「わらび座」という劇団による、ミュージカル「銀河鉄道の夜」を観る機会がありました。言葉にならない感動でしたが、中でも、この一匹の蝎が死を目前にしてこのような言葉を吐く迫真の演技に、息をのむ思いがしたことを憶えています。

この蝎は、溺れ死ぬ直前、自分のからだが真っ赤なうつくしい火になって燃えて夜の闇を照らしているのを見たのです。

ずっとずっと後になって、やがてその真っ赤に燃える火をジョバンニとカムパネルラは見つけるのですが、「ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔ったようになって、その火は燃えている」、それを不思議な気持ちで眺めます。

蝎はこれまで自分が普通に食べて暮らしていた日常が、何者かによって、食べられる立場に突然の転換を迫られ、そしてやがては食べられることもなく命尽きる、というエピソードです。この「食べる」にまつわる彼の別の作品で、「注文の多い料理店」という作品があります。この作品の序文で、「これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません」とあります。彼にとって、いうまでもなく言葉は常に命であったはずです。だから蝎のこの祈りは、「透きとおった本当の食べもの」であるに違いない。私には、この蝎自身が、この祈りを通して本当の命へと変わっていく、変容していく、そして「透きとおった本当の食べ物」となっていく、そのように思えるのです。

「本当の幸い」は、ここでも、他者のために生きることによってのみ得るのだということが明らかにされています。

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