ノートルダム女学院高等学校 2020年度 卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校 2020年度卒業式 式辞

 

2021年3月1日

 

学校長 栗本嘉子

 

 

 

 

卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。3年間、または6年間、ノートルダム教育に共感し、信頼してご同伴頂いたことを、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

 

さて、皆さんの卒業の年である2020年度は、その最初から今日に至るまで、新型コロナウイルス感染症との闘いの日々だったという印象が拭えません。本日私は、世界が、この共通の課題に向き合っているこの日常、その中に、一番大切な何かが隠されているということを、式辞としてお話したいと思っています。率直に言えば、それは、コロナとの闘いという課題がなければ伝えられなかったことかも知れず、その意味において、否定的に見えるようなことがらの中にも、大切な英知を見出すことができるということをお示しする機会とも言えます。

 

新型コロナウイルス感染症が世界で蔓延する中、世界中の人々の日常行動様式は、その変容を余儀なくされています。本校も、昨年4月5月は校内完全閉鎖、全教科オンライン授業の展開という、まさに「いのち」を最優先に守るための選択をしつつ、全く想像もしなかった新しいチャンネルで学習の活動を続けました。オンラインという選択をきっかけに、従来の方法に囚われない新しい発想、やってみたかった展開がこの際に実現したことは大きな実りでした。授業のみならず、生徒独自の企画によるオンライン文化祭の開催や、学習成果のオンライン配信などは、その例でしょう。そのプロセスは、決して順風の時ばかりではなく、うまくいかないこと、楽しみにしていたイベントがことごとく中止になり、コロナさえなければ、と悔しく思ったことは一つや二つではなかったでしょう。こんなに制限だらけの中では何もできない、とやる気をくじかれるようなことも一度や二度ではなかったでしょう。それでもなお、ノートルダム女学院はこの間、生徒も教職員も皆が共に同じ地平に立ち、どんなにくじけそうになっても、新たな学びを体験するチャンスとして、無限の可能性に向かって歩むことができた、そのことを私は学校長として大変誇りに思っています。

 

 

さて、この新型コロナウイルス感染症に、私たちはこの年月、どのような心で向き合ってきたのでしょうか。特に皆さんは、高校最後の学年が、このウイルスとの闘いと共にあったのですから、そのことを大切なことと考えてほしいと思います。

 

先日、世界中の新型コロナウイルス感染症による死者が240万人を超えたとニュースが入ってきました。いのちは常に「質」であります。本来数えられるものではない。にもかかわらず、私たちはこの一年以上の期間、陽性者数、重症者数、死者数を常に数値化し、目に見えないウイルスの動向を追ってきました。私たちは、240万人という「いのち」の個体数の実感を、しっかり自分ごとにできないまま今日に至ってしまいました。だれがいつ亡くなっても不思議ではない中、実際にこれだけの方々が亡くなってしまい、そして今、私たちは生きている。生きている私たちは今、そしてコロナの後、どう生きるべきなのでしょう。

 

昨年の卒業式は、まだ、このコロナウイルス・パンデミックの始まりの時でした。これから先、どうなるか予測ができない中、私は昨年の高校3年生に、ビクトール・フランクルの考察を共有しています。それは、次のようなものでした。

 

過去を悔やんだり、未来を案じたりするのではなく、また、自分の置かれている環境の責任を問うのでもなく、「今」この時を、私自身がどのような「心」で、どのような「態度」で生きたらよいかを、一生懸命考えることができる人、その人が自分の人生を豊かに生きることができる。たとえ何を失っても、たとえすべてが奪われたとしても、あなたが生きている限り、あなたがこの世界に対して、どのような「態度」で向き合うのか、それはあなた自身の全き自由であり、その自由は、決してだれによっても、何によっても奪われることのないものなのです。このように申し上げました。これを、再び今、やはり私はあなた方と共有したいと思います。

 

 

もう少し、言葉を尽くして申し上げましょう。この長くて残酷なコロナ渦において、モティベーションや、ひいては生きる意味を失っていく人々も少なくありません。コロナウイルスのパンデミックは、医療の分野のみならず、社会的にも、生活基盤の脆弱な、弱い立場に置かれている人々へ被害を大きくもたらしたと言われています。現代社会のゆがんだ部分を、このウイルスがつまびらかに明示したとも言えるでしょう。「コロナのせい」で、いろいろなことが確かに影響を受けた。しかし、もし、あなたが、ある考え方に気づいたら、もし、自分の人生を生きる上で、この考えをもつことができれば、だれかのせい、何かのせいで、自分の日々の生活が台無しになることは決してないのだ、と伝えた人が、フランクルだったのです。オーストリアの精神科医であったフランクルは、ナチス政権下でのアウシュヴィッツ強制収容所の生還者の一人でした。日々の残酷極まりない極限状態の中で、それでも絶望することを回避できた人々を彼は見た。そしてその人の多くは、解放の日まで生きながらえることができた。彼は医師としてその理由が知りたかった。そしてその後、「夜と霧」という有名な著作で、最初にそのことを著しました。すなわち、自分を取り巻く環境が自分の運命を決めてしまうのだという見かたではなく、ここで、この環境下で、「自分は日々どう生きることを問われているのか」、という考え方に方向転換できた人、そういう人々の多くは生き伸びることができた。ただ生き伸びたのではなく、希望を持ち、愛する人を想い、自分自身の人生を生きた、と彼は言っている。残念ながらそういう人々の中にも解放前に亡くなる人も多くいました。それでもその人は、神から与えられた人生に対し、人としての誇りをもって最後まで生きた。そういう人々を彼は目の当たりにするわけです。アウシュヴィッツの極限の生活の中では、他者のパンを奪って飢えを満たそうとする者たちがいる一方で、なけなしのパンを、自分より弱っている人に惜しみなく与えることが出来る人がいた。生きては出られないと知るガス室に、運命をののしりながら入っていく人たちがいる一方で、賛美歌を歌いながら進む人もいた。この違いは何だったのか、フランクルは、その後、多くの著作の中で考察しています。人生を生きる上で、自分が独自に決めることができる「態度」、それは最後の最後まで自由に自ら選択することができる。そして、それが、自分の人生に、かけがえのない「意味」を与えるものなのである。卒業式というおめでたい時に、少し厳しいお話をしていると思います。「夜と霧」は、しかしながら世界のベストセラーでもあります。世界は、人生を生きる上で大切な英知を、過酷な状況下でこそ得ることができたこの一人の精神科医の言葉に見出すことが出来たのです。そして、今この時ほど、それを、私たちが自分ごととして理解しやすい時はないのではないかと考えます。皆さん一人ひとりは、神様から愛され、特別に固有の人生を、神様から与えられています。パンデミックは人々に一様に襲いかかりましたが、それをどう受け止め、それに対してどう答えながら日々を生きるのかは、自分自身の行動にかかっているわけです。「自分の人生に対して、自分はどう応えるか」、これが今日の私のメッセージであり、最後に皆さんに贈るキーワードです。

 

皆様のご卒業に際して、神様の祝福が豊かにありますよう、心からお祈りをいたします。

 

 

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