「主体的に生きる」ことの意味

 

 普段、ほとんどスポーツ観戦には関心がない私だが、唯一例外があり、それはとある理由で学生アメリカンフットボール観戦である。複雑なルール、ヤードという単位、時計が止まる、いきなり攻守交替など、独特の決まり事があるが、それでも機会がある度に観戦にも出かけるし、配信で観たりもする。「タッチダウン!」の瞬間は、私ですら盛り上がり、涙が出たりする。しかしながら、日本ではまだ、どちらかと言えばマイナーなスポーツ、あるいは、昨今のニュース等を通しては、にわかに注目を集めざるを得なかったスポーツ、といったところであろうか。ところが、本場アメリカでは、国中で自分の州、自分の大学、自分の地域上げて、このスポーツ観戦には大変熱狂的である。私が驚いたのは、ミルウォーキーにあるノートルダム修道院に滞在していたある朝、食卓を囲むシスター方、お年格好としては70歳をとうに超えておられるだろうシスター方が、前晩の試合の様子とその結果について、複雑なルールとその用語を駆使しながら非常に熱心に語り合っておられたことである。その方々がたまたま特殊なのではなく、テーブル越しに多くのシスターズが嬉々として盛り上がっておられたのだ。日本の修道院ではよもや見ることのない光景だと感じるとともに、このスポーツの喜びや楽しみがこんなところにまで及び、普段と変わらないはずの人々の朝食の光景を豊かに彩るものなのだと感慨深い思いをしたことが記憶に残っている。

 

 さて、そのアメフトの、とあるチームのキャプテンの話をしたい。学生アメフトでは、他の多くのチームスポーツも同様、一部リーグと、二部リーグ以下とに分かれている。この競技の場合、一部はいわゆる強豪チームの8大学、二部も8大学、そして、それ以下と続く。言うまでもなく、一部リーグで優勝すると全国制覇の栄光への道も見えてくることとなり、皆それをめざしている。

 

 私が応援していたそのチームは、このキャプテンが一回生の時に一部リーグから入れ替え戦で二部リーグ落ちとなり、血のにじむ努力にもかかわらず丸二年間這い上がることができず、三年目にしてようやく一部へと戻ってくることができた。それは一昨年末のことである。彼はその春、新キャプテンとなる。最上回生になると同時にキャプテンともなった彼は、なんとその次の一年で、一部リーグ残留を維持したのみならず、そればかりか、一部リーグの中で四強と言われる強豪グループ四大学の一校と数えられるチームへと成長させたのであった。八番目のチームがいきなり四番目へと登ることは並大抵ではあるまい。屈辱的な状況下で、なおチームの内側のエネルギーをよりポジティブなものへと変容させ、チーム一丸となって苦境からこのように這い上がったことは、本人たちも、応援していた者たちも皆が驚いた。今年度の終わりにその功績を認められ、栄えある賞をもらったこのキャプテンが、感謝の言葉の中で、次のように話していたことが、今回、彼についてここに書こうと私を思わせた所以である。

 

 彼はこう話した。「最もチームに貢献した者に与えられる賞を頂きましたが、自分はチームに貢献したとは思っていない。むしろ、「チームは自分のこと」、「自分ごと」と思ってやってきただけです。これは自分がキャプテンだから、ということではなく、一人ひとりができることだと僕は思っている。僕は下回生の時から、「このチームは、〇〇ができてないからよくない、だから弱い、ダメだ」等々、評論家のような言葉をチームメイトが口にすることが嫌いでした。百人以上もいるこのチームの一人ひとりは本当にかえがえない。一人、また一人と、チームのことを自分ごととして主体的に捉え、チーム愛をもって取り組み始めれば、もっと上のステージに行けるチームとして成長できるはずです。」

 

 「主体性」という言葉は昨今至るところで耳にする。「主体的に学ぶ」「主体的に取り組む」等々。今回、様々な困難を乗り越えた末に結果を出したこのキャプテンの口からこの言葉が出てきた時、「主体的」という言葉の重みを改めて感じざるを得なかった。

 

彼のスピーチを聴いていて、改めて「主体的に生きる」とは、自分の与えられている環境、自分の属している場、自分に関わるすべてのことがらを、愛をもって自分の内側に取り込むことに他ならないと感じた。「自分ごと」と彼がいみじくも言ったのはそういう意味であろう。自分のこととして捉えた時、すべては自分の責任になる。それは言い換えれば、起こっているすべての、自分が当事者となることである。当事者となった時には、もはや、他者や周りのせいにはできない。自分のチームを、自分の学校を、自分の地域社会を、自分の国を、この地球を、すべての人が一人ひとり、自分のこととして捉え、当事者意識をもつ。当事者は、自分の課題に向かって知恵をしぼり、一生懸命に思考し、問題課題を解決し、より良いものを目指そうとする。まるで親が子どもを懸命に育てるように、かけがえのない友を力づけ、助けようと必死になるように。それは、愛する者たちの心の中であり、愛する者たちの言葉であり、愛する者たちの行動である。当事者たちとは、愛する者たちのことなのだ。このキャプテンはチームを愛するが故に当事者となった。そして、だれでも、それを愛する者ならその当事者となれる、と彼は言ったのである。愛をもつ者同士が力を合わせて取り組むことができれば、この世界に、冷たい傍観者などだれもいなくなる。そしてその時、必ず何かがしなやかに変わっていくはずだ。それは、愛によってしか成されない本物の成長と言える。

 

 なるほど、このチームが今年度始めに掲げたチーム目標は、一言、”Change” だった。今、すべてが終わって、その意味がよくわかる気がする。

 

(本校広報誌「オイキア」2019年3月発刊号に掲載)

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